和歌山県福祉保健部様主催
岡山県 邑久光明園(おくこうみょうえん) 長島愛生園(ながしまあいせいえん)
和歌山県病院協会立 和歌山県看護専門学校の学生さん達も参加しておられました
看護を志す学生さんが自主的に来られているのは嬉しいですね
ハンセン病だと言われ厳しい差別を受けてきた方々
今はみなさん完治しています
それでもハンセン病だったときの後遺症が手や足 お顔に形として残っているために病気は治っていて伝染することはないのに 人々に理解されずに差別を受けています
今も故郷に帰って暮らすことが出来ずにいます
ハンセン病は既に治癒して久しいことから 患者さんではなく入所者さんなのです
和歌山出身の方々とお会いしました
和歌山に帰ったらぜひ伝えてほしい ハンセン病は治らないという偏見が今もあります そうではなくて今は治っています ハンセン病は見えるところ たとえば顔 手などに形に残るため 私達は施設から出ることができません
岡山の街に出てお店に行って注文しても それは売り切れで今日はないと言われてたり 割れたお皿で出されたりすることもあります(食べた後 そのお皿を捨てるそうです)今日 ここに来てくれたことをきっかけに 間違った情報を持った方々にぜひ 病気はもう治っていること 国の間違った政策によりさ差別を受けていることを伝えてほしいと仰っていました
私も2012年に沖縄の愛楽園に行き直接お話しを聴かせてもらうまでは知識がありませんでした
ぜひ誤解を解いていただきたいと仰ってくれた方々の気持ちを少しでもお伝えしたいと思っています
ハンセン病だった方々は今、高齢になっていてこのままだと偏見が残ってしまう
ここに来られた方に 伝えていただきたいと仰っています

写真は この療養所から出ることがなく亡くなられた方々の納骨堂です
ここにきたときは 1年くらいがんばったら治るからと言われたそうです
ここから逃げようとした人は橋がないから泳いで逃げるしかなかったのです
溺れて亡くなる人
捕まった人は山の中の監禁室に入れられたそうです
昭和28年までこの監禁室は使われていました



夏は暑く冬は寒かった灯りもないコンクリートの監禁室 トイレの穴から逃げようとした人も
そして監禁室の壁には 南無大師遍照金剛の文字が
故郷に帰りたいけれど 帰ると家族がまた差別を受けるからと 帰ることができない人達
子どもの頃に連れてこられた人
お金も全て取り上げられて園内でしか使えない紙のお金に代えられたそうです
服は消毒されて真っ白に
ここから出ることは許されなった
子どもを産むことも許されていなかった
もし妊娠したら堕胎を強いられた
誰も病気になりたくてなったわけではない
ハンセン病になった方達も 同じ人間であるのに ひどい差別を受けてきました
仰っていたのは間違った知識でなく 本当にことを知ってもらいたい
真実を知ってもらうことで 少しでも差別や偏見をなくしてもらいたいのです
ハンセン病に関わらず 世の中には差別や偏見がたくさんあります
今日帰ったら そのことを伝えてほしい 私達は伝えることができないのですと
故郷のご家族に迷惑をかけないようにと 今も園内の名前を名乗っておられる方がほとんどです
1988年 ようやく念願の邑久長島大橋が開通しました
強制隔離を必要としない証 として「人間回復の橋」と呼ばれているそうです
人権に長年尽力されていた方が言っていました
「色々な差別を見てきたけれど ハンセン病になった方々ほど厳しい差別をうけた人はないのではないか」と

長島愛生園 模型

ハンセン病は視覚障害がのこることもあります
点字は指先で読みますが 指にも後遺症が残っているかたは 感覚ののこる舌で点字を読まれるそうです

全ての写真は大きくなります クリックしてくださいね
来年もまたしますのでと和歌山県福祉保健部 健康推進課の方が仰ってくれました
私は2年連続で参加させてもらって良かったと思っています
1年目は質問ができずにいましたが 今年は色々とお聞きすることができました
昨年のことを書いたのはここです
2014年7月 邑久光明園 長島愛生園
こちらは2012年6月 沖縄愛楽園の糸数宝善さんと初めてお会いしたときのこと
ハンセン病で愛楽園にきてからのことを語ってくれました
沖縄愛楽園 糸数宝善さんが語ってくれたハンセン病
以前ハンセン病になっておられた方がおられる療養所です
今はみなさん ハンセン病は完治しておられます
入所してる方のお部屋へ行かせてもらいました
あつあつのゆで卵やブドウのピオーネ トマト いっぱい出してくれてまるで実家に行ったときのような気がしました
色々聞いてみたかったのですが 質問するよりも ご夫妻とのたわいない会話 それに和みました
和歌山県病院協会立 和歌山看護専門学校の学生さんも来られていました
小学生からかなり高齢の方まで 年齢は色々でした
本島と この島の距離はわずか30m
橋がなくて島から出ることができなかった過去
無理やりつれてこられ 毎日過酷な労働を強いられて療養所ではなく 収容所だったと仰っていました
ここから今見える海は穏やかできれいです
でも そこにいる方々にとっては この海さえなかったら 逃げていけるのにとおもわれたと思います
家族と暮らすことができない
家族に迷惑がかかるから 実名を名乗ることができない
結婚しても子どもを産むことができない
もし赤ちゃんができたら堕胎される
亡くなっても故郷の墓に入れてもらえない
同じ人間なのに 国の誤った政策によって隔離された人々
そして 偏見と差別は今もまだあります
1988年 ようやく念願の邑久長島大橋が開通
強制隔離を必要としない証 として「人間回復の橋」と呼ばれているそうです

島から逃げようとした人が入れられた監禁室の壁には 思いが書かれていました
南無大師遍照金剛の文字も
入所されている方々の平均年齢は80代です

2012年 沖縄のハンセン病療養所愛楽園に連れて頂き 糸数宝善さんという方に出会ったことがきっかけでした
糸数宝善さんとの出会いは 私にとってすごく大きかったのです
人権に専門にかかわっている方が「今まで多くの差別にかかわってきたけれどハンセン病ほど厳しい差別はないのではないかと僕は思う」と言っておられました
この内容は あまりに深いのでもうしばらく自分の中で温めてから 書かせてもらいます

沖縄の糸数宝善さんに出会わせてくれた方に感謝します
高齢の糸数さんは体調を崩しておられます
会いにいきたいです とっても

ハンセン病をかつて患っておられた方がおられます
今はハンセン病は完治しています
長年にわたって心を込めて交流を続けておられる
飛騨千光寺のご住職 大下大圓さん 京都大学で准教授をされている女性 岐阜で音楽療法士 介護のお仕事で頑張っておられる女性とご一緒に訪問させていただきました
ご住職のおかげで 愛楽園の糸数宝善(いとかず ほうぜん)さん(88) 敦子(あつこ)さんご夫妻のお部屋に伺わせていただき、直接お話を聴くことが出来ました
糸数さんご夫妻との出会いは、私の中で大きすぎて、まだ言葉にできません 簡単に言葉にできるようなことではありませんでした
帰りに 糸数さんが みんなに ご本をくれました
「沖縄の偉人 沖縄愛楽園の創設者 青木恵哉遺作集」 いのちのことば社 佐久川正美さん 編集
その中に 青木恵哉さんの
「痛み経て 真珠となりし 貝の春」 という句がありました
ご病気をされていた方々は、ご高齢になっていかれます
ハンセン病と向き合い、生きてこられた方々のことを いつか 未熟ですが 自分の言葉で お話できたらと思います
戦争を体験していない自分が、戦争のことを講演でお話することは恐れ多いと思って なかなかできすにいたとき沖縄出身の若い子たちが メッセージを歌にして伝えていたり、広島原爆のことを 広島の若い子たちが 詩にして伝えてくれている姿に 心が動きました
その子たちに チカラをもらって 沖縄地上戦 ひめゆり学徒さんたちのことを 講演でお話させてもらえるようになりました
沖縄地上戦を体験した 義父のこと ひめゆり学徒さんたちのことを 時間がかかったけれど 自分の言葉で伝えることができたように ハンセン病のこと 糸数善さん 敦子さんのお話を いつか 自分の言葉で 伝えていけたらと思います
ご縁あって、糸数さんご夫妻と出会わせていただいたこと
あまりに 大きすぎて 出会ったことだけを ここに書けるまで 3か月 かかりました
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